08:食
一口目のスプーンをいれる前から若干崩れたような、決して安定しているとは言えない形状と、ココアパウダーで覆われて地割れを起こす表面。スポンジのコーヒーの染み具合にむらがあり、スプーンですくう度にクリームとの割合の違いにより異なる味や柔らかさも楽しみの一つで、スポンジとクリームにより、かろうじてつなぎとめられているその存在感は朧げとも言える。
私が愛するティラミスは、ショートケーキのようには凛とせず、タルトのような煌びやかさも持たず、ショーケースには並ばない。スポンジにコーヒーを吸わせてくたくっとさせて、クリームにマスカルポーネチーズを混ぜて粘り気を得ることで、ケーキでは支持とデコレーションとに役割が二分されていたスポンジとクリームの関係は脱臼され、単にそれらを積層させるだけで、器なしで自立する絶妙なバランスにある。私はティラミスの脱構築性に惹かれている。
07:まぼろし
裁縫が好きな私の祖母は、パッチワークのバッグやタペストリー、ビーズの飾りがついた巾着をよく作っていた。似たような作りでも、布の柄や配置を変えて無限のバリエーションがあり、大量に作ってはバザーにも出していた。そんな祖母も齢90に近づき、最近はあまり作っていない様子なのだけど、先日帰省した折に、私に「パッチワークのバッグをあげたい」と言った。
制作物が置いてあるのは2階の部屋で、外出時には杖を使わないといけない体で、一段一段上がってきてはみたものの、どうやら前に置いたはずの場所にないらしい。折角2階まで上がってきたのに、久々に訪ねてきた私にバッグをあげたいのに、前見た時はあったのに、、、探しながらもあげたいものが見当たらないことを嘆く祖母。そうして最後には「あれは、まぼろしだっとのかなあ」とつぶやいた。
実は、祖父が別の場所に移したのかもしれないし、そもそもが自分の記憶違いだったのかもしれないし、その場にあるんだけど見落としているのかもしれない。本当のことは誰もわからない。そういうことは、まぼろしだったら仕方がないか、という気がしてくる。
物忘れや体の不調で、自分のことなのに思うようにいかないことが増えた祖母の生活は、まぼろしに救われている部分があるようだ。
06:最近覚えたこと
一つのフライパンだけを使って具入りのパスタを作ること
豚バラをブロックで買ってスライスして焼くだけで満足感があること
食料を使い切らない時はパッケージを捨ててラップで包んだりするとすっきりと収納できること
鉄製のフライパンでチャーハンを作るとおいしいこと
セロリとサキイカの相性がいいこと
きのこを使う時は一品に3種類入れるといいこと
手料理をいいお皿に盛り付けるとより楽しくなること
意外と近い距離に品揃えが豊富でお手頃な大型スーパーがあること
かなしい気持ちになっても2人でご飯を食べれば大抵のことは和らぐこと
自分が作った料理を食べてもらうことと自分に作ってくれた料理を食べることは同じくらい幸せなんだということ
05:先日のこと
そういえば、映画を見に行ったんだけど、それが映画館じゃなくて、映画を実際に撮った多摩川の河川敷で無料の野外上映をするやつで、最寄りの駅から歩いて30分くらいかな、駅前の商店街で中華料理をテイクアウトして、あと思ったより寒そうだったから安いズボンも買って行ったんだよね、そうそう、あのよく作業着とか買うお店、隣にマックがある、その日は朝から雨が降ってて風も強くて、天気がどうなるかと思ったんだけど、中華料理を買うくらいの時には雨も止んでて、ズボン買った店から河川敷に向かって坂を降りていくんだけど、向きがちょうど西でさ、雨が降った後で空気が洗われたんだろうね、日が暮れていく時間帯のきれいな空がよく見れてさ、あれは何色って言うんだろうね、夕日の色もいろいろあるじゃん、あの時はやさしい水色とオレンジ色が水彩で塗ったみたいに混ざってたな、なんかもっといい言い方がある気がするんだけど、腕の中にはほかほかの餃子と炒飯があってさ、もうあの時から映画は始まってたね、うん、や、それを言うなら駅降りたくらいからかな、あ、そろそろ時間か、まあとにかく、なんかこういう屋外上映をよくやっているらしいから、今度一緒に行こうよ
04:なる
小学生の頃は中学生になりたかった。放課後の部活動に憧れていたから。
中学生の頃は高校生になりたかった。塾で見かける先輩が大人っぽく見えたから。
高校生の頃は大学生になりたかった。実家を出て気ままな一人暮らしをしたかったから。
大学生になって、次になりたいものはどこにもなかった。なりたくないものならあったけど。もう何にもなりたくないような気もするし、それでも何かになりたいような気もする。のこされたのは、すでにあるものになることではなくて、ただなるようになる、それだけなのかもしれない。
03:都内の住宅地で
家家が立ち並ぶ中に、ぽっかりとした空き地があった。隣の住宅に張り付いて残った壁にはHILLS AOYAMAと書かれたプレート。それを横切って階段から一歩足を踏み入れる。
両側の住宅にかたどられる空白。ブロック塀が示す地形の高低差。コンクリートのわずかな凹みに溜まる昨晩の雨水。階段にコンビニの飲みかけコーヒー。半分壊された階段の下に溜まる瓦礫。開けた空に向うようにして階段に覆い被さる隣地の植物。厚さ1cmくらいの薄いタイル。下地のコンクリート。むき出しの鉄筋。瓦礫。
ものの数分の訪問であった。
02:痛みと旨み
革製のローファーが足に吸いつくように馴染んできた。はじめは30分もあるけなかったけど、それでもかわいい靴を履けるようになりたいから、かかとと小指の外側に一枚ずつ、合わせて4枚の絆創膏を貼ってから家を出ていた。使っていくうちに買いたての時にはなかった皺が靴にひとつ、またひとつと増えていき、絆創膏を貼ることもなくなった。
フグはおいしい。おいしいからできるだけ食べ尽くしたいところだけど、フグには毒がある。当たると死ぬからてっぽうと呼ばれるようになったらしく、相当多くの人がフグを食べて死んでいったんだろう。そんなフグも、研究が進むにつれて毒の知識が蓄積されて、バタバタと人が倒れるようなことはなくなった。
医療でのX線検査、飛行場での手荷物検査など、放射線は様々な場面で利用されている。100年以上前、レントゲンにより放射線の発見が報告されると、後を追うように様々な実験がされ、当初は多くの研究者、医師、被験者が放射線の浴びすぎで障害を受けていた。それでも、探究心により研究が途絶えることはなく、徐々に放射線の研究開発が進むと共に防護策が確立されていった。
最初は痛みを伴うことでも、やり続けると旨みだけを得られるようになることがあって、そうした頃には最初の痛みは忘れていることが多い。その痛みと旨みの関係は、一人の人生に収まらず、世代を超えることがあるようだ。
01: かき揚げ無料券か全メニュー無料券か
ある平日の昼下がり、駅前の蕎麦屋で6枚つづりのかき揚げ無料券を手に入れた。
有効期限は2か月後。
その札によって、ここから2か月間でかき揚げそばを6回食べる未来が勝手に定められているようだった。
蕎麦もかき揚げも好きで、外食する機会があるとひとまず蕎麦屋を探してしまうほどなのだけど、そうやってなんとなく好んで通っていたら2か月に6回もかき揚げ蕎麦を食べていた場合と、6枚つづりのかき揚げ無料券を使い切って2か月に6回もかき揚げ蕎麦を食べていた場合とでは、同じ期間で食べた量が同じだったとしても、意味合いが異なる。
せめてかき揚げと並んで温玉とかとり天とかある中からトッピングを選ぶ券とかだったらまだ使う気になるのに。
と、そんなことを思いつつ、反対に全メニューの中から自由に選べる券だったら、自分が食べたいものを考えることよりも高いものを選ぼうとか、余計なことを考えて迷ってしまうのかもしれない、と想像したら潔くかき揚げしか選べない券も悪くはないと思った。人生には、かき揚げ無料券を使う時、全メニュー無料券を使う時、そんなものは要らないと券を跳ね返す時があるのだろう。